【131】 
越中おわら風の盆 
   2007.09.01-02
  
 早朝5時、津を出発して富山まで行ってきた。北陸路に秋を告げる、越中八尾(えっちゅうやつお)「おわら風の盆」…、胡弓の奏でる物悲しい調べに乗って男女が踊るこの催しを、一度、見たいと思っていたのだ。
 伊勢道から東海北陸道を走り、途中、随所で休憩しながらゆっくりと走って、午後3時すぎに到着した。「ゆめの森」指定駐車場に車を置いて シャトルバスで町中へ…。


 すでに それぞれの町内で町流しが始まっていて、踊り手と地方の何人かが一組になって町中を踊りながら流していく。流しの人数は、数人から数十人…。
 風の盆は、お祭りというにぎわいとはちょっと違う。盆と言うから、盆踊りの風情といったところだろうか…。でも、この行事には、踊りの優雅さと相まって、歌の文句の粋さや節回しの妙、そして何よりも地方(じかた)の楽曲の哀調も特筆すべき素晴らしさなのである。


← 昼間は、子どもたちも踊る。
  

 午後5時を過ぎると、踊りはしばらく休憩…。夜に備えて、食事をとったりするらしい。章くんも、駅前通りに並ぶ屋台店をのぞいて、ベビーカステラやコーラを買い込み、資料館などを見学して歩いた。
 「おわら」って何だ…と調べてみたら、『文化9年(1812)の秋、遊芸の達人たちが滑稽な変装をして新作の謡を唄いながら町練りを行い、謡のなかに、”おわらひ”という語をさし挟んで唄ったのが”おわら”に変わったという「お笑い節説」。豊年を祈り、藁の束が大きくなるようにとの思いから”大藁”が転じて”おわら”になったとの「大藁節説」。八尾近在の”小原村”出身の娘が女中奉公中に得意の美声で唄った子守歌が起源だとする「小原村説」等が語源とされています』。
 ついでに、「風の盆」とは…と見てみると、『立春から数えて210日にあたる日が台風の厄日とされてきたことから、風の災害が起こらないことを祈る行事として「風の盆」という呼び名が付けられ、豊作を祈ると共に風災害の無事を願い、この時期に設定しました。』とある。
 

 午後7時、すっかり暮れた山間いの町に、再び胡弓の音が流れ、各町で夜の踊りが始まった。


   ぼんぼりの灯に千人を超えるといわれる踊り手たちが
  幻想的に浮かび上がり、優雅な手舞いで見物の人びとを
  魅了する。                   →

 


   
 町流しの踊り歩く様子を見物しながら町々を通り抜け、八尾小学校にたどり着くと、グラウンドに設けられた演舞場では、各町内ごとに時間を変えて演舞会が繰り広げられていた。
 各町内ごとに 男女の踊り手の衣装が違うのも楽しいが、地方の衣装も、また演奏の方法・調子も 少しずつ違うようだ。それぞれの町内に伝わる踊りや演奏方法というのがあるのだろう。


  ↑ 女の人の帯が黒いのにお気づきだろうか。
    これは昔、女性の衣装を揃えるとき、帯までの費用がなかったため、どこの
    家にもあった 冠婚葬祭用の黒い帯を締めて踊ったことに由来するとか。

 
 
 現在の「おわら風の盆」の成り立ちを、記念館のパンフレットから紐解いてみよう。
 『「おわら節」は、上句七七、下句七五の歌詞とお囃子が交互に掛け合い、下句の七と五の間には「オワラ」と合いの手が入ります。
 …略… 昭和3年、「おわら風の盆」を再構築しようという動きが地元で起こり、日本画家の小杉放庵さんが八尾に招かれました。小杉さんは、まず八尾の冬の状況を歌詞にしました。それが「もしやくるかと 窓押しあけて 見れば立山 オワラ 雪ばかり」です。
 冬の歌詞がきっかけとなって、春夏秋冬を唄う『八尾四季』が誕生しました。春の歌詞は「ゆらぐつり橋 手に手をとりて 渡る井田川 オワラ 春の風」。夏は「富山あたりか あのともしびは とんで行きたや オワラ 灯(ひ)とり虫」。そして、秋は「八尾坂道 わかれてくれば つゆかしぐれか オワラ はらはらと」です。
 さらに『八尾四季』にあわせて、新しい踊りが作られました。振り付けたのは舞踊家の若柳吉三郎さんです。それが女子の「四季踊り」であり、その後、男子の「かかし踊り」も振付けました。
 小杉放庵さんの「八尾四季」という歌詞が、今の「おわら風の盆」につながっているという点から「八尾四季」はぜひ聴いていただきたいですね。「富山県民謡おわら保存会」では毎年、新しいおわらの調の歌詞を募集しているので、歌詞は数千におよびます。』とある。 
 
 坂の町「八尾」の町中を行くと、家々の軒下に溝があり、川水が気持ちいい音をたてて流れている。これが「エンナカ」と呼ばれる側溝で、冬に屋根雪を流し運ぶための知恵である。『残したい日本の音風景100選』にも挙げられている「坂の町に流れる用水音と、もの悲しい祭の音色に酔う エンナカの水音とおわら風の盆」の風景なのだが、この雑踏では妙なる水音を楽しむというわけにはいかず、かすかな水音に耳を澄ます。


 八尾では、各町内で幼い頃から子どもたちに踊りを教えるというから、八尾の人たちはみんな踊りの達人である。25歳になると、踊り手を卒業していくのだと言っていたので、踊っている人たちは、全員25歳以下の若い子たちだ。
 でも地元の人は、25歳という円熟の域に達した頃に踊りをやめていくのは惜しいとも言っていた。少子化の時代、いずれ踊り手が足らなくなって、定年延長かも…。(もちろんOB・OGの皆さんが、自前の浴衣で一般の観光客たちと一緒に踊りの輪に加わるのは自由だ。揃いの浴衣とは異なるあでやかな浴衣姿も、風の盆にまた一興の彩りを添える。)
 ぼんぼりの灯りに照らされて踊る娘たちの踊り姿は、どこかこの世のものとは思えぬ美しさが漂う。夜目、遠目、傘の内…と、女性が美しく見える条件の全てをそろえている風の盆の踊り手さんたち…、哀愁の越中おわら節の曲調と相まって、優雅で幻想的であった。


 日付けが替わるころ、まだ どこかから胡弓の哀調が聞こえる八尾の町をあとにして、深夜 富山へ入り「ダイワロイネットホテル富山」にて宿泊…。



 



 2日は北陸道で金沢へ出て、少し早い目の昼食。久しぶりに「兼六園」を歩き、越前海岸を南下して「東尋坊」へ立ち寄ったりしながら、夕刻に敦賀へ入った。
 おなじみ「日本海さかな街」をのぞき、「かに喰亭ますよね」で魚尽し…、大満足。



 その翌日、3日は
疲れが出たのか、午後2時ごろまで寝ていて、食事をしてから、またソファーでごろごろ…。見るともなくテレビや録り溜めてあるビデオを見ながら 夜の9時になってしまい、ご飯を食べて、また寝た。 その翌日も…、まだ眠い。
                                  物見遊山トッブへ